2025/08/03 シーラカンスは息を潜めて

教室の中は、海の底みたいだ──と、思う。

中に入った途端、水が耳に詰まったように音がぼわっと歪み、クラスメイトのおしゃべりする声がざわざわと遠くへ行く。なにもかもがよく聞こえなくなる。別に誰も僕のことは呼ばないから、それで特に問題はない。

視界は光の届かない海底のように暗く、僕はその中で何かを探し必死に見ようとするけど、クラスメイトの顔はお面をつけたように表情が読み取れない。お面の下では、どうせ僕を嘲って笑っているんだろう。

授業中はまだいい。みんな授業を受けているから、私語の出番は少ない。問題は休み時間だ。クラスメイトはみんな友達とぺちゃくちゃおしゃべりをし、あの子が誰と付き合っただとか、アイツに告られたんだけどマジキモくて…とか話している。くだらない話ばっかりしやがって。

僕はそこには入らず、ひとりで本を読んでいる。僕はバカなクラスメイトたちとはレベルが違う。暗く歪んだ視界の中で、活字だけはしっかりと頭に入ってくる。人が沢山死ぬ話が好きだ。ミステリーも好きだし、乙一とかも良い。休み時間も昼休みも本を読み、ひとりで弁当を食べている。時々僕の席でクラスの一軍の男女が腰掛けて盛り上がっていたりして、そういう時は最悪だ。僕は仕方なく、空き教室の積み上げられた机の陰に隠れて弁当を食べるしかない。クソ陽キャ共が…

 

ある日いつも通り息を殺して教室で本を読んでいた昼休み。クラスメイトの誰も僕のことなんて気にしていないはずなのに、話したことのない女子に名前を呼ばれた。

「ねぇっ…ねぇ!」

「は…はひぃ…っ!?」

変な声が出る。別にびっくりしたわけではない。

「さっきから名前呼んでるじゃん。見てあそこ。呼ばれてるよ。」

名前も知らない女子が指差した先は、教室の出入り口。誰かが僕に手を降っている。同じクラスの人以外は教室に入れないのも、なんかの結界が張られているみたいだ。はて、僕に手を振る友人など、この学校にいただろうか…。

よく見たらそれは、幼馴染の圭人だった。

家が隣で学年も一緒、親同士が仲が良く、小学生の頃は親に言われて一緒に登校していた。昔は純朴で何をするにも僕に頼ってきていた圭人だったが、小学校高学年くらいからみるみる背が伸び、元々かわいい系の顔は成長しアイドルのように整った顔つきになってきて、去年あたりから学年でベスト3くらいに入るスクールカースト上位の美人の女子と付き合っているとクラスメイトが話しているのを噂に聞いた。僕たちは中学に入るあたりから自然と交流が減っていき、2年生になった今はほとんど会話することもない。

学年で集まった時など、時々奴がこちらを睨んでいるのに気付くことがある。僕が何をしたというのか。今となってはこんなにスクールカーストが離れた僕と圭人だから、僕が何をしても圭人に悪い影響を与えることはない。僕が睨みたいくらいだ。

そんな圭人が、とうとう直接僕を呼んでいるという。なんなんだ。怖…くはないけど、僕は今本を読んでいるのに忙しいんだ。今いいとこなんだ。呼びかけには応じられない。

「無理…今、ほ、本…読んでるから。そうやって言っといて……く、ください。」

「はぁ…?…はぁ〜、分かった。」

名も知らぬ女子はそう言って圭人のところへ伝言しに言った。「何アイツ…せっかく圭人くんが呼んでくれてるのに…きも…」とかなんとか言ってるのが聞こえた気がしたが、僕は聞こえないフリをする。教室の中では何も僕に直接作用しない。

 

いつも教室の中で僕は、昔見た図鑑に載っていた「シーラカンス」という魚を思い出す。ヒレが10本ある、深海に生息する古代魚。はじめて図鑑で見た時、こんなカッコイイ魚がいるんだ!と思った。闇夜を写したような紺色の鱗も、その中にきらめく白色の模様も、異様に数の多いヒレも。カッコよさと不気味さを併せ持つその深海魚は、教室の底で息を潜める自分自身の姿と重なった。

 

 

放課後、図書室へ本を返し、また次の10冊を借りた後、一人で帰路へつく。いつも通りの帰り道。

こういう時帰宅部は気楽だ。親には部活に入って友達作りなさい、などと言われるが、出来て数年のこの学校にはほとんど運動部しか部活がない。あいにく僕にはみっともなく走って汗や土にまみれる趣味はない。別に運動が出来ないとかではない。

学校からの通学路を寄り道もせずまっすぐ帰り、もうすぐ家だ…という地点で、うしろから「ぉ〜ぃ…お〜〜い!」と声がする。なんだ。怪異かもしれない。この間読んだ小説みたいに、振り向いたら魂取られたり……。

そう思うと僕の足は自然と止まり、体は硬直する。別に怖いわけではない。

すると後ろから荒い息が聞こえ、ナニカに肩に手を置かれる。いよいよ僕も終わりか…と思っていると、そのまま肩を掴んで後ろへ振り向かせられる。

 

そこに立っていたのは、圭人だった。

 

「圭人…」

「もぉ〜やっと追いついた。昼休みは本読んでる最中だったみたいだからさ。今見かけたから、走って追いかけちゃったよ。」

身長も高くなり顔もアイドルみたいな整い方をしてきている圭人だったが、話し方は昔と変わらなかった。

「な、なんの用…ですか」

「急な敬語どうしたの…。まぁいいや。

いや〜これ、この間シーラカンスを売りにしてる水族館行ったのね。彼女と。だからこれお土産渡そうと思って…」

圭人が差し出してきたのは、シーラカンスのキーホルダーだった。アクリルで出来ており、リアルに描かれたシーラカンスの体がつやつやと輝いている。

「彼女はキモいキモい言ってたけど、俺は結構好きだったよ、シーラカンス。実物大の剥製があってさ〜かっこよかったよ。」

圭人は僕が聞いていないことを嬉しそうにほくほくと喋っている。

「…僕、圭人にシーラカンス好きなんて話したっけ。」

「エ〜!昔一緒に図鑑で見てさ、かっけ〜ね!って話したじゃん!」

そうだっけ。僕の記憶の中では僕一人で図鑑を見ていた気がしていたが、実際は圭人と二人で見ていたようだ。そんなこと忘れていた。

「でさ〜、言ってたじゃん。”学校の中にいる時、シーラカンスみたいな気持ちになる”って。」

「え…」

僕、そんなこと圭人に言っていたのか。僕が思っていたより、昔の僕は圭人と仲が良かったようだ。まぁ…僕にとっては、唯一の友達が圭人だった。圭人からしたらそんなことなかっただろうが。

「俺全然知らなかったんだけど、シーラカンスって一回絶滅したと思われてたんだね。それが100年くらい前にまた発見されて、実は生きてた!ってなったんでしょ。」

「まぁ…そうだけど…」

それがどうしたんだ。

「だから…まぁ…こう……しぶとく生き残ろうぜ、て話!誰に見つからなくても、絶滅したと思われてても、しぶとく生き残ってれば勝ちなんだから!でしょ?シーラカンス見習ってこうぜ!」

 

急に雑なまとめ方をしたな。なんだ。何が言いたいんだこいつ。

もしかして…

「僕のこと、励まそうとしてるの?」

それを聞いて圭人はため息をつく。

「…っそうだよ!

昔はよく遊んでくれたのに、最近俺と話してくれないし…目も合わせてくれないし…。そもそもあんまり人と話してるとこ見ないし…。俺は全然昔みたいに話したいのにさ…」

圭人がそんなふうに思っていてくれているのは全然知らなかった。睨まれていると思っていたのは、僕のことを気にして見ていただけだったのか。

僕はいつの間にか、陽キャだ陰キャだ、クラスカーストがどうだ、と勝手に卑屈になり、自分の方から圭人を遠ざけてしまったようだった。久しぶりに話してみたら、圭人の中身は全然昔と変わらなかった。相変わらず裏表のないいい奴で、だからこそみんなに好かれるんだと思う。

 

僕はありがたいなと思う気持ちと、圭人のことが羨ましくて仕方がない気持ち、両方の気持ちが自分の中に存在することを認めなくてはならない。だからまだ素直に、勝手に避けてごめんとか、気にしてくれてありがとうとか、そういう綺麗な言葉は言えない。

…言えないけど、せめてキーホルダーのお礼くらいは、言わなくてはならない。僕は人としての礼儀は欠きたくない。

 

「…キーホルダー、ありがとう。」

僕は頑張ってそう口にした。

「だろ〜?かわいいよな、これ。」

それを聞いて、圭人は嬉しそうに笑う。いい奴すぎる。

 

「あと、圭人……またはなっ…は…話そう。」

僕は精一杯の勇気を出してそう言った。かなり早口になったし、変な噛み方をした。恥ずかしい。

「じゃ、じゃぁ…」

ぼくはそう言って、自分の家へ向かおうとする。

圭人がぽか〜んとしてる表情が一瞬見えたが、そのまま背を向け足早に去る。

 

「…また明日な〜〜!!」

後ろの方で圭人が大きく叫んだ。

僕はこそばゆい気持ちで振り返り、小さく手を振った。

 

また、明日…。明日学校へ行ったら、話をする相手がいるんだ。

心が浮き足立つような、そわそわとする心持ちがする。

 

手の中に握られたシーラカンスのキーホルダーは、何を反射したのか、キラキラと光って見えた。

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